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オリンピックムーブメントと嘉納治五郎

1940年第12回大会の東京への招致(2)

この時の嘉納の論理はどのようなものだったのだろう。それは、近代オリンピックは、それまでギリシャ人だけに参加が限られていたオリンピックを、より広く世界の人々が参加できるオリンピックにするために始められたのだから、ヨーロッパとアメリカのみのオリンピックであってはならない、東洋でも行わねばならない、また、日本ほど熱心に大会に参加している国は世界中に少ないではないか、というものであった。

当時はまだ、飛行機は発達していない。ヨーロッパから日本に来るには、船またはシベリア鉄道経由のルートで、どちらも20日近くかかった。ヨーロッパ人にしてみれば、日本に選手団を派遣することなど想像もできなかったであろう。渡航日数が長く、旅費がかかりすぎる、ということで反対するIOC委員が多かった時代であった。

1936年のバイエ・ラツール伯IOC会長来日歓迎会。
1936年のバイエ・ラツール伯IOC会長来日歓迎会。

しかし嘉納はそれを逆手に取った。そのような遠距離にもかかわらず、日本からは1912年以来毎回多くの選手が参加している、従って欧米の選手がそのような日本に集まることなど、日本選手団の苦労からすれば大した事はない、むしろそうすることでオリンピックが欧米のものから世界的な文化になる、と主張した。相手の論理を見事に自身の論理に引き寄せたのである。相手に逆らわずして勝つ、という柔道の理念そのものであったともいえる。

東京かヘルシンキかで争った1936年7月のIOC総会(ベルリン)での投票結果、36票対27票で東京が勝利する。このIOC総会に出席した嘉納は、「IOC委員に就任して27年間のオリンピック・ムーブメントが実を結んだ、今後は東京大会を世界の模範とするべく、またこれを機にオリンピックを世界の文化にせねばならない」と述べている。さらに、大会規模を競うようになっては弊害が生じるので、東京大会はベルリン大会より規模を小さくしたい、と米メディアのインタビューに答えている。コンパクトな大会という構想を既に持っていたのである。

国際オリンピック委員会における嘉納治五郎。
国際オリンピック委員会における嘉納治五郎。

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