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メキシコ大会 サッカー日本代表
日本サッカー草創期に開花した世界レベルの技とフェアプレー精神

第2次大戦後、日本のサッカーは低迷を続けていました。オリンピックのローマ大会(1960年)では予選敗退。次回は東京大会(1964年)で、開催国は無条件で出場できるとはいえ、情けないプレーを見せるわけにはいきません。そこで強化対策として、ドイツからコーチとしてデットマール・クラマーが招聘されました。

技術的に未熟でまとまりに欠けていた選手たちに彼が課したのは、徹底的な基礎練習でした。彼は選手たちと同じ旅館に泊まり込んで寝食を共にしながら、信頼関係を築いていきました。このときの教え子には、釜本邦茂、杉浦隆一らがいます。

また、彼が教えたのは技術のみではありませんでした。曰く、「グラウンドはサッカーだけをやる所ではない。人間としての修練の場である」「ガールハントをし酒を飲み煙草を吸いながら一流のプレーヤーになるのは不可能。サッカーは心の教育の場である」等々。ただ勝てばいいのではない、人間性や礼儀を重んじる彼自身のサッカー哲学を伝えたのです。

東京大会では、日本はベスト8進出という快挙を成し遂げました。堂々たる結果を残した選手たちにクラマーが言った言葉は「タイムアップの笛は、次の試合のキックオフの笛だ」。

大会終了後、クラマーはコーチの座を退き、日本を去りました。しかし選手たちは彼の教えを心に刻み、「次の試合」を目指して練習を続けたのです。

かくして日本代表は、続くメキシコシティー大会(1968年)の予選を好成績で突破。本大会でもブラジルやフランスなどの強豪を押さえて準決勝に進みました。残念ながらそこではハンガリーに敗れてしまい、3位決定戦で開催国メキシコと対戦することになりました。

前半は日本が2点を入れ折り返しました。後半はメキシコがボールを支配し、攻撃を繰り返しますが、GK横山をはじめ日本の守備は固く、得点には結びつきません。そんな中、いつの間にかスタンドからの圧倒的な「メヒコ」という声援が「ハポン」に変わっていきました。日本の粘り強い守備とクリーンなプレーが、観衆をも味方に付けたのです。

結果、2-0で日本が勝利し、銅メダルを獲得。これは、サッカーではアジア勢初のメダルでした。また、6試合で7得点を入れた釜本が、今大会の得点王に輝きました。

このとき、FIFA(国際サッカー連盟)の技術指導員であったクラマーも、スタンドで日本の勝利の瞬間に立ち会っていました。彼は後にある取材で「人生最高の瞬間は、日本がメキシコシティー大会で銅メダルを獲得したとき」と語っています。

1969年には、メキシコシティー大会の日本チームに対して、ユネスコからフェアプレー賞(正式にはピエール・ド・クーベルタン・フェアプレー・トロフィという。1964年創設)が贈られました。「6回の厳しい試合の中、日本選手はよくルールを守り、ラフなプレーがなかった」「競技場の外での日本選手のマナーには、スポーツマンとして模範とすべき」というのが授賞理由でした。

メキシコシティー大会での サッカー・釜本選手
メキシコシティー大会での サッカー・釜本選手
写真提供:フォート・キシモト

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